ゲームが子供の教育に云々という話は科学的に証明された話ではない。
それは政治家やその資金源達の利権のタネのひとつであるにすぎない。
規制かければ儲かる連中と規制が無いほうが儲かる連中がいる、それだけである。
いじめもスーサイドもゲームが存在する以前、そもそも人間という種が生まれる以前よりあることで、人間じゃなくても他の個体との接触の可能性を持つ生物には皆存在している事象である
さてこの野生動物たちはいつゲームに触れたのだろうか?
ゲームが悪い、マンガが悪い、ラグビー部が悪い、宗教が悪い、信仰が無いから悪い、空手が剣道が悪い、今の若いもんは…、これだから団塊は・・・
何か事件が起こる度、だれしも簡単にそういって「ジャンルのせい」すなわち「特定の文化、階層のせい」にしたがる。
が、本当はそこに携わる「人間」次第ではなかろうか。
無論時に個人レベルでなら「ジャンルのせい」にして現実逃避しても仕方の無いときもあると思う。精神的に参ってしまっていてとても自分ひとりで抱え込めない何かがあるとき、一時的に重荷を「何かのせい」にして凌ぐ。人間の心は弱いものだ。これは仕方の無いことで、そういった面から言えば今まだ「ジャンルのせい」にしている人々を糾弾するのはそれもまた間違っていることだ。大体においてそういう人たちは愛情深い、人の好い方なのだ。人間を(中には”自分だけを”の人もいようが)愛しているからこそ人間のせいに出来ず、とりあえず「他のなにか」のせいにしてしまいたいのだ。「(そのときどきで槍玉にあげる)「それ」さえなければ人間はよくなるはずだ」と信じたいのである。
(ただ、理を知っていながら『規制しましょう!社会の為に』などと善意を煽って裏で金儲けしようという連中の所業は許されることではない)
どうせいま両親に聞いたところで忘れているだろうが子供の頃、冷蔵庫に水羊羹があった。
誰もいないキッチンで全種類一つずつ平らげた。だがそれは母が何かのお礼にどっかの人にあげるために冷やしておいたものだった。
夜になって母に叱られた私はこういって開き直った「だってそこにようかんをおいとくのが悪い!ようかんさえなければ食べなかった!」と。
母は顔を真っ赤にして怒り、横で食事していた父が何かを吹き出したのを良く覚えている。
本当は、なぜきれいに包装された箱のまま一番上に大事そうに仕舞ってあったのか?を考えなかった「自分」に過失があったのだ。
仮に「あるゲームを模倣して殺人をした」と発言する犯人が現れたとしてもそれはそのゲームが悪いわけではなくゲームをゲームと割り切れなかったその個体固有の問題だ。
「ジャンルのせい」に出来ないと知ったとき、人は大きな現実にぶち当たる。例えばこうだ「あんな唾棄すべきことをやったあの犯人が自分と何も変わらない「人間」だと?」 これを認めるのにエネルギーがいる人もいるだろう。
ニュースでいってたあの犯人はあの「ジャンル」に属している。だから犯罪なんかやるんだ。自分はその「ジャンル」とは無関係だから善人である。そうだいっそあの「ジャンル」は規制しちゃおう。やってるやつもいじめちゃえばいい。正義は我にアリ。
そう思い込みたいところだ。それが人情であるかもしれない。
だが不毛である。
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Dungeons-英雄王の崩御-
注意:
基本的にネタバレ気にせず書いています。
まっさらな状態でプレイしたい場合は注意が必要です。
またネタバレでありながら、そのときそのときの私の主観で書かれている為、情報の正確さはゼロです。そのあたりご了承願います。
情報の間違いが判明しても特に修正もしません。
先週はこの道を右が正解と書いておきながら、来週は左が正解の道だとしれっと書いていることでしょう。